人間劇場とは

反常識的なもの、よけいなもの、風変わりなもの、猥雑なものへの賛歌

ようこそ、人間劇場へ。

当サイトが扱う主題は、ずばり「人間」です。

とはいっても、このサイトのコンテンツには、立派な人の話、健全な人の話、格調高い批評、あるいは美しい動画や画像はあまり出てきません。

というわけで、ご自分を「正しく真っ当な人間」だと思われている方にとっては、不愉快千万なテキストや動画、画像だらけなのかもしれません。

ご容赦ください。

私どものコンセプトは、人間の弱さや愚かしさ、劣情や奇妙なものへの偏愛といったものへの全肯定であり、とりわけエロいものには力を入れたいと思います。

カトリックでは人間の七つの罪、すなわち「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憤怒」、「怠惰」、「傲慢」、「嫉妬」を固く戒めていますが、そんな戒めは『人間劇場』にとって「屁のツッパリ」にもなりません。あっ、品のない表現で申し訳ありません。

当サイトにたどり着かれたのも何かのご縁、ともあれ一度覗いてみてください。

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人間劇場
アラーキー先生と僕

第1回:天才との出会い

いきなりではありますが、私の場合、天才アラーキーこと写真家荒木経惟さんとの出会いはまったくの偶然でした。

 

一九七〇年代初め、私がちょうど二十歳の頃、池袋西武デパート二階のイベント会場(イベントといっても若者に店舗を開放して色んな手作り作品を自由に販売させてくれるという内容のものでしたが)で、私はその後今にいたるまで自分の人生に大きな影響を与えることになる一人の写真作家に遭遇したのであります。

私はその頃、高校を卒業して就職したディスプレイの会社を辞めて、いろんなアルバイトをしながら、陶芸に興味のある友人たちと共同で練馬に小さな窯を置き作品を作っていました。

そんな作品をそのイベント会場の一画に並べて売っていたんですが、たまたま隣のブースが写真家集団Gという人たちの写真展を、というより写真集や面白い写真を販売していました。ただ、メンバーの人たちは朝にめっぽう弱いらしく、お昼頃にポツポツとやってくる。そんな人たちの中に、何と荒木さんがいたのです。

荒木さん自身はたまにしか来なかったと思う。出版社の編集者と原稿の受け渡しをするついでに現れるくらいだったように記憶しています。当時、『ガロ』の編集者だった南伸坊さんの姿も見かけました。確か長髪だったような気がする。下駄を履いてたっけ? 荒木さんも下駄だったかなあ?

ところで、私は荒木さんのことはすでに知っていて大のファンだった。なにしろ私の中では超有名人でしたから。電通在職中の一九六四年、『さっちん』で太陽賞を受賞した荒木さんは、当時新進気鋭の写真家として知られていました。そんな荒木さんが隣に現れたんだから、そりゃ驚きましたよ。

というわけで、ちょいと緊張しながらイソイソ挨拶に行くと、「悪いけどさぁ、うちのメンバーみんな忙しいから店番がいなくなっちゃうんだよ。誰か来るまで、こっちの店番もやってくれよ」とお願いされました。

それはもう嬉しかった。もちろん、喜んでやらしてもらいましたよ。

そういえば、当時チョンマゲっぽい頭していた池田福男さんも顔を出してましたね。この人はちょっと変わったカメラマンで、ヌードの女のコに日の丸の扇子を持たせて「アッパレヌード」なんてのを撮ってましたね。思えば何でもアリの面白い時代で、面白い時代には面白い人が

そんな時、荒木さんが一冊の写真集を私にくれたんです。

「これ、アタシの自費出版した写真集。出来たばっかり。これあげるから店番頼むな!」

いただいた写真集のタイトルは、『センチメンタルな旅』。

愛妻陽子さんとの新婚旅行を題材としたこの私家版の写真集は、長らく商業出版されず「幻の写真集」とされてきましたが、近年河出書房新社から復刻版がやっと出版されました。収められた一〇八枚の写真には他の作家にはない荒木さん固有のリリシズムのようなものが焼き付けられていて、どれもこれも素晴らしいものでした。作家荒木経惟の原点ともいえる写真集です。

<センチメンタルな旅> 1971年 東京都写真美術館蔵

陽子さんが亡くなって後、時々この写真集を開くことがあるのですが、何べん見ても、その都度目頭がジワリと熱くなってしまいます。この写真集、今でも私の大事な大事な宝物です。

そんなこんなで思いがけない二週間でしたが、イベントが終る日、荒木さんは私と友人のI君に「何かあったら言って来いよ。出来る事なら何でもやってやるからな!」などと有り難いお言葉をかけてくれました。

この頃の荒木さんは電通を退社してフリーになり、写真家として写真展をガンガンやりまくっていました。

その後もずっと、荒木さんはあの独特の自筆で書かれた写真展の案内状を送ってくれて、オープニングパーティーには何度もお伺いしました。とにかく精力的に活動されていて、「ヨオッシ、私も頑張らなきゃ!」と背中を押されたような気がしたものです。

ところで、映画の上映前にやるニュースって昔ありましたよね。このイベントがけっこう話題になったらしく、私たちのブースもその映画ニュースで取材されました。テレビも来ました。愛川欽也さんでした。それと私の作品で、売りたくなかったレリーフの作品に、シャレで六千八百万円という法外な値をつけていたのを新聞で紹介されたりもしました。

とにかく、いろんな意味でずいぶんと収穫のあるイベントだったんです。収穫といえば、ブースに毎日のようにやって来る女子高生がいたのですが、彼女は作品を買うわけでもなく遊びに来るだけ。結局、そのコと三年くらいおつき合いさせてもらい、結婚しました。二十三歳の時です。

 

『感電キング』創刊と秋山祐徳太子さんの選挙

さて、荒木さんにハッパをかけられた私はアニメーターの仕事をしながら陶芸を続けていましたが、陶芸仲間の湯村さんは大阪に帰り、金子さんも富山に帰ってしまいました。ただ私が働いていたアニメ工房の社長だった高木厚さんが、やっぱり陶芸をかなり本格的にされていて、色々と指導してもらいました。

でも、やっぱり続けられませんでした。そういえば、あの頃描いていた動画は「マジンガーZ」でした。工房の隣に机を並べていたのは湯山君、大学受験に落ちて浪人中だったみたいです。そんな湯山君、あれからずうっとアニメ関係の仕事しているみたいで、あのピカチュー(ポケモン)の監督をされているという記事を見たことがあって驚かされました。何事においても一つのことをやり続けるって大事ですねえ。自分で言って、自分の耳が痛いです。

結局アニメーターの仕事もやめ、私は専門書のイラストやカット、図版やグラフを描く仕事をフリーでやるようになりました。でも、何かもっと面白いことをしたくなって、ミニコミみたいなものを創刊しました。といっても、要するにマンガの小冊子です。誌名は『感電キング』、カッコエエでしょう。私が考えました。

創刊するにあたって、「そぉーだ、荒木さんにも写真の連載をしてもらおう!」と思い、図々しくもノコノコお願いに行くと、これが快く承諾して下さって大喜びです。調子にのって、高信太郎さんにもお願いしました。その頃大好きだったアーティスト、というよりパフォーマーだった秋山祐徳太子さんにもお願いしました。

これは面白いモノが出来ると私は確信しましたね。わずか五百部程度でしたが、書店に直接納品させてもらい販売すると、アッという間に売り切れてしまいます。

荒木さんの奥様の陽子さんが気に入って下さっていると耳にした時は、創刊して本当に良かったなあと思いました。まったく調子こいた若者でしたけど、みなさん優しい方ばかりで助かりました。

そういえば二号目を出そうという時、秋山祐徳太子さんが突然、東京都知事に立候補すると言い出しました。これは面白いってんで、早速特集を組むことにしました。もちろん、選挙運動員としても協力しました。

『感電キング』創刊第2号より

選挙ポスターは、秋山さんの似顔絵を描かしてもらいました。それをコピーして、都内の掲示板に貼りまくります。泡末候補とはいえ、秋山さんの飲み仲間、新宿ゴールデン街の文化人たちはみんな応援してくれ、供託金はみなさんのカンパで念出できたみたいです。

選挙中、高輪にあった都営住宅のご自宅には何度もお伺いしました。まだお母さんがご存命で、出前のたぬきうどんをご馳走になりました。お母さんが出前の電話を入れると、電話を切るか切らないかの内に、「お待たせしましたぁ、たぬきうどん三人前でぇ~す!」

というのは冗談ですが、いやはやそれくらい早く持ってきました。このうどんの旨いこと! 今でも忘れられません。

秋山さんは荒木さんより年上で、今はもう八十代のお爺ちゃんです。つい最近も銀座の画廊でお会いしました。

「おおっ、シマモト! そういえば言い忘れてたけど、選挙の時お前が描いてくれた似顔絵、美術館に所蔵されてるよ。別に了解は得なかったけど、いいだろ別に」

なんて言われます。ホントかいな。でも、お会いする度に同じことを言われます。その都度、それはそれは、と私も嬉しそうな顔を何度もします。

本当の話なのか、どこの美術館にあるのかは、今もって知りません。

ともかく、秋山さんにとって、やっぱりあの都知事選は人生における大きなパフォーマンスだったのでしょう。今から四十五年くらい前のあの石原慎太郎と美濃部さんが戦った選挙です。美濃部さんが勝ってホッとさせられたあの選挙です。秋山さんは「保革の谷間に咲く白ゆり」なんてのをキャッチフレーズにしていました。

二十年くらい前、向ヶ丘遊園の近くに出来た美術館のコケラ落としに岡本太郎の展覧会が開催された時、パーティーの二次会で荒木さんと秋山さんが同席され、私はビデオを回しました。

これが面白くて、まるで漫才。荒木さんが秋山さんのことを「マザコンちゃ~ん!」なんて冷やかします。それを、嬉しそうにニヤニヤしながら応酬する秋山さん、面白過ぎ。腹がよじれて手持ちのビデオカメラが揺れてしまいました。

そんな方々が連載して下さっていた『感電キング』でしたが、結局五号で終ってしまいました。なぜ、終わったか?

実は二号目からスポンサーというか、ある印刷屋さんが有難い提案をしてくれたのです。当時は反権力っぽいミニコミがたくさん出ていましたが、その印刷屋さんはそういった小雑誌をたくさん印刷製本していて、会社は高田馬場にありました。そこの社長のKさんが私に、「うちで作ってあげるから、印刷代は売れた分の中から払ってくれればいい」とおっしゃってくれました。

第3号表紙。
第3号本文より

どうやらKさんは、そういったミニコミ誌の中では『感電キング』が一番売れているのを知っていたみたいです。ところが、部数

を五千部にして、広告も入れ頁数も増えてぶ厚くなり、書店へ配本する人手もないし大変なことになりました。それに倉庫もなかったので、出来上がったの

はいいけれど、どうにもこうにもただ積んであるだけで邪魔になってしまいました。

それでも私は独りで『感電キング』を自転車に乗せて、セッセセッセと書店を回りました。そんな私を見て社長のKさんが健気に思ったのかどうか、「うちで働かない? バイトで」と誘って下さり、そこで働くことになりました。結婚もしていたし子供も生まれたので、定収入があるのは助かりました。

ただ、配本する時間がとれないくらい仕事が忙しく、とうとう五号で終ってしまったという次第です。

そんなある日、その印刷屋さんに背の高い男の人がひょっこりと現れ、何か仕事を頼みたいと言うではありませんか。

 

特殊編集者、末井昭さん

それが末井昭さんとの出会いです。末井さんの会社は、印刷屋さんからそれこそ歩いて二~三分くらいの所にあって、どうやらエッチ系の雑誌を出版しているようでした。末井さんはその編集の仕事をされてました。しかし縁は異なもの、その雑誌には何と荒木さんもかかわっていたんです。

仕事の依頼は印刷ではなく、雑誌の中の二色刷り特集頁の制作の仕事でした。その内容は、何とピンクサロンの特集です。でもって、社長のKさんはピンクサロン大好き。これは面白いってんで、夜になるとKさんは友達と一緒に張り切って取材に出かけて行きます。

私はというと、留守番です。そうしてみんなが撮ってきた写真や、記事のメモを見ながらレイアウトに合わせた文章を書くのが私の役目でした。

そんなことを続けるうちに、末井さんの仕事も忙しくなり、依頼される記事も増えて、なし崩し的に私は四年勤めたKさんの印刷屋を辞め、またフリーになりました。末井さんの雑誌は『ウィークエンドスーパー』という雑誌でした。この雑誌は一部でカルト的人気があり、末井編集長の個性が前面に展開された風変わりなエロ雑誌でした。連載の仕事も頂くようになり、特集はUFОだったり、自殺の名所巡りだったりしたのを覚えています。それにしても原稿料というものをちゃんと頂くようになったのは、とっても嬉しかった。

さて、そうこうするうちに、末井さんの会社はどんどん大きくなります。私は同じ会社内の別の雑誌からも仕事を頂くようになります。

 

『写真時代』の時代

末井さんが、後に四十万部も売れるようになる『写真時代』という雑誌を創刊した頃だったでしょうか。当時関西で話題になっていた「ノーパン喫茶」という冗談のような喫茶店が東京にもできたというので、末井さんと覗きに行きました。場所は東長崎で「ルルド」という店でした。

『写真時代』創刊号表紙

いざ行ってみると、二階にある店へ登る階段の下まで行列していて大盛況。いやはやブッたまげましたよ。コーヒー一杯千円から二千円したような気がします。女のコはみんなノーパン、といってもミニスカートの下は肌色のパンストを着用していますから、見えるような見えてないような。それでも驚きです。

これは面白いというわけで、末井さんと私は本場関西へ取材旅行に出かけます。もちろん、末井さんの雑誌で特集するためです。いやもう面白過ぎて、ハチャメチャな取材旅行でした。

京都のノーパン喫茶第一号店「ジャーニー」や、ファッション喫茶「モンローウォーク」。大阪に向かう途中の寝屋川にある「水槽喫茶」なんか女のコが泳いでいるし、大阪じゃビルの地下を掘って天井をマジックミラーにして、普通の喫茶店の女のコのスカートの中のパンツを下から見上げるなんてのもありました。

阪急東通り商店街では、それこそノーパン喫茶だらけで、取材する店に事欠きません。どうもピンクサロンより客が来ると思ったのか、居抜きで喫茶店を装う怪しい店もありました。「いやあ、疲れたねえ、ちょっと休もうか普通の喫茶店で」と末井さん。

で、普通のカフェのような店に入ると、これまたノーパン。困ったような嬉しいような。そこで私は女のコに聞いてみました。そのコはパンストも着用せず、ミニスカートだけのノーパンだった。すると彼女、「うちヘーキや。時給エエし」、だそうです。未だ二十歳くらいのコです。

その頃、何となく自分が昔風の人間なんじゃないかと思えてしかたなかったのを覚えています。その時代はすでに、女のコの世の中に対するモノの見方が変わってきていたのかもしれません。

東京に戻ると、早速末井さんは特集を組み、末井さんと二人で原稿を書いて入稿します。そんな時、末井さんの会社とは別に、私が仕事をしていた出版社から本を出さないかという話があり、この取材を素材に関西のノーパンブームを本にすることになりました。それが末井さんとの共著で出した『ノーパン革命!』という本です。この頃の雑誌の見出しや本のタイトルは、ナンチャッテ過激派、ヘンなコピーがマイブームでした。

その後、風俗業界では次から次へと面白い店が出現し始めます。SMクラブやファッションヘルス、覗き部屋、マンションヘルスにデート喫茶。何しろノーパン喫茶ブームなんて、わずか一年半くらいでした。お客の欲望は益々エスカレートし続け、止まる所を知りませんから。

当時の荒木さんは末井さんの『写真時代』で大活躍です。荒木さんの名を世間に広く知らしめるのに、『写真時代』はかなり貢献したのではないかと私は思ってます。

私自身もドンドン忙しくなって、いつの間にやら世間様からは風俗ライターなどと呼ばれておりました。というか、開き直って自分でそう名乗りました。

おかげでスポーツ紙では連載をいっぱいやらせてもらい、事務所を構えてスタツフも増えました。そんな折、末井さんからある人を紹介されました。その人は集英社の名物編集者、田中トモジという人でした。

その頃はもう風俗はお祭り騒ぎ状態でしたから、私のような風俗ライターでも『週刊プレイボーイ』のようなメジャーな雑誌に連載させて頂くことになったのです。

見開きの二頁の連載で、タイトルは「島本なめだるま親方のウハウハ日記」というハチャメチャなタイトルで、一週間毎日フーゾク店で女のコと遊びまくり、週に七人の女のコを紹介するという、いわゆる風俗店情報コーナーです。

そのコーナーは四コママンガと、替え歌を毎週一つ作って頁を構成するというシロモノ。すべて田中トモジ氏のアイデアでした。実際、連日連夜取材しまくっていましたからネタには困りませんでした。

荒木さんはというと、『月刊プレイボーイ』で海外の娼婦の撮影を、連載されていたと思います。今から三十年以上前のことです。

 

さて、私の事務所も人が増えてきて法人にすることになり、社名を「株式会社SKIP」としました。その頃の仲間というか、やはりライターをしていた杉森昌武君が名付け親です。

会社にする以前は、その杉森君と共同で小さなマンションの部屋で机を並べて原稿を書いていたんです。確か彼の大学の仲間と作っていたミニコミを知ったのがきっかけだったと思います。『中大パンチ』という小雑誌で、とっても面白かったです。ヌードとかも入れてましたね。

そのマンションには杉森君の仲間の板橋雅弘君(現在は作家先生)、えのきどいちろう君、それにやはりライターになった木村和久君などが出入りしていましたが、彼らは同じ世代ですが私だけが五~六歳年上のオヤジでした。

その後は杉森君たちは「シュワッチ」という編集プロダクションを構えます。私の事務所を法人にしたのは、その頃のことです。社名の「SKIP」って、特に意味はありませんでした。ただスキップだったのを、シマモトケイ・インナープロジェクトの略だってことにして、後付けでゴロ合わせしたんだけです。

板橋君などは「シマモトケイ・インチキプロダクションでいいじゃん、ハッハッハ!」と馬鹿にしていました。失礼なヤツです。まあとにかく、お互い同じ業界ってことで仕事を回し合ったりしていたんです。

ただ、私の仕事なんて人様に堂々と名乗れる業種じゃない(開き直って名乗ってましたが)ので、どうしても家族には説明出来ませんでした。子供たちの教育にも悪いし、情け無い話ですが家族から足が遠退くようになってしまいました。

寝泊まりは事務所の押し入れでした。実際、それくらい忙しかったんです。そういえば当時は、田中トモジ氏もそうですが、その上司だった島地勝彦さんみたいな面白過ぎる名物編集者がいました。この人たち、とにかくいつもハイテンションでノリが異常によく、私が「九州の筑豊あたりでUFОが飛びまくっているそうですよ」なんて言うと、会議中に巻頭記事差し換えなんて即決しちゃうといった感じです。

 

陽子さんの死

さて、そんなこんなでバタバタした日々を送っていた頃、田中トモジ氏が結婚することになったんですが、そのパーティー会場で荒木さんに会いました。

「オオッ、島本、大変なんだよ。医者の奴、脅かしやがって、陽子の病気がかなり悪いなんて言っていたのが、そうじゃなかったんだよ」と話しかけてくれました。私も、それは本当に良かったです、とホッとさせられました。

ところが、それからしばらくして、新宿の「DAG」の一階の喫茶店で、私が奥のテーブルで打ち合わせをしていた時でした。荒木さんが入って来て、私の姿を見つけて手招きをします。何だろうと思ってスッ飛んで行くと、「やっぱり駄目みたいなんだ。本当にかなり悪いらしい」と呟きます。

陽子さんのことでした。私には言葉もありません。大変な事になっちゃったなあ、とすごく暗い気持になりました。

それからしばらくして訃報の知らせが届き、私は喪儀に参列させて頂きました。喪主の挨拶で荒木さんが号泣する姿を見ました。

でも、浄閑寺で葬儀の後の酒の席に現れた荒木さん、首に真っ赤なマフラーを巻いていました。その時の荒木さんの真っ赤なマフラー姿は、今でも目に焼き付いたまま残っています。

 

さて、私が仕事をさせていただいていた『日刊スポーツ』には星野さん、『日刊ゲンダイ』には近野さん、みなさんクセのあるデスクの人たちでした。星野さんは亡くなられ、近野さんは退職されて今は飲み友達です。近野さんの奥様は、あの個性派女優の今は亡き沖山秀子さんです。生前はジャズを歌われていて、私もよく聞きに行ったものです。

星野さんは、とにかく強引なデスクでした。突然電話が入り、「小説を書け! 毎日の連載で」なんて命令がきます。「いえ私、小説なんて書いたこと無いっすけど」と答える私。どんな内容なのかと聞くと「それは任せる! どうなんだ? やるのかやんないのか!」と迫られ、私は「やっ、やりますよやります!」とつい答えてしまいました。もう、ヤケクソです。

それで挿し絵をどうしようかってことになり、交流のあったマンガ家の畑中純さん(あの名作『まんだら屋の良太』の著者)にお願いしました。そしてその連載は毎日で、半年くらい書いたでしょうか。あ~、やっと終えたと思ったら、またしばらくして、「十分休んだろ? また始めるからな!」と電話が入ります。

ともかく、この方にはずいぶんと鍛えられました。そして連載は今現在も続いているのです。

ドタバタ喜劇のような日常が続く中、あのスクープ写真誌で有名な『フォーカス』や『フライデー』が次々と創刊されます。私がフーゾクの情報を収集しているという噂はすでに両誌に知れ渡っていたらしく、毎週編集者が私の事務所に訪れます。ネタがあれば提供しますが、なくても毎度少しのギャラを頂いておりました。

実は、警察当局内部に情報源があった私は、その頃あった事件ネタも持っていたことから、まるで洋画に出て切くる「情報屋」気取りでした。特に盛り上がったのは、あの三浦和義の事件です。極秘に捜査本部が設けられた場所も知っていたし、逮捕に至るXデーも知っていました。

そんな折でしたか、『フライデー』で荒木さんの連載が始まります。毎週風俗嬢を撮るといった連載でした。そこで私に情報が求められ、スタッフとして私と事務所の薬師寺君が荒木さんに同行することになります。当時勢いがあった『フライデー』ですから、経費もたくさん使えました。荒木さんは撮影を終えると、いつも私たちを引き連れて銀座にくり出します。

どう考えても荒木さんの持ち出しじゃないかと思ってますが、いつも銀座の倶楽部が開店すると同時に入り、遅くまで飲んでいました。荒木さんと、荒木さんのスタッフの田宮さん、安斎さん、それに私と薬師寺君、そして担当の編集者の計六人分を荒木さんの奢りで飲むわけですから、大変な額になったはずです。

 

<続く>

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第8回:加工場にて

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